

広告写真を撮る日々と平行しながら、上田は数々の作品を世に送り出して来ている。そのなかで、現在もっとも新しい取り組みといえるのが「博物標本」を撮ったシリーズだ。研究目的の役目を終えたそれぞれの標本が、写真でしか生み出し得ないもう一つの実体となって見る者に迫ってくる。
2006年 写真集「CHAMBER of CURIOSITIES」より
2006年 写真集「CHAMBER of CURIOSITIES」より
2006年 写真集「CHAMBER of CURIOSITIES」より
2008年 写真集「BIOSOPHIA of BIRDS」より
2008年 写真集「ONE HUNDRED STONEWARES」より
「黒の空間表現」を再び
これまで私が手がけてきた幾つかの写真シリーズは、それぞれが完結しているというわけではありません。私の中では、それぞれが今後も撮り続けてみたいと思っている写真です。その中で一番新しいシリーズが、2005年から2008年の3年間にかけて撮影した東京大学総合研究博物館が所蔵する、標本類を撮った写真群です。
この蝶の標本の写真は、明治時代に箕作教授が長い時間をかけてつくられた昆虫標本を私が撮影した一枚です。ある日、東京大学総合研究博物館の一室で西野嘉章教授に、私がこれらの標本を初めて見せられた時、驚きの声をあげたのを覚えています。引っ張り出された、標本箱のガラス越しに見える蝶の羽が、その箱床の上に、粉状に崩れながらも、その生前の形を美しく写していた。私は瞬間、その標本が過ごし、そして忘れ去られてきたあまりにも長い時間に思いをはせ、これを何よりもこのままの状態で写真に残すことが大切だと考えました。形が完全に残っている物、つまり、学術標本としての価値がある物以外は、廃棄処分されることが既に決まっていると知らされたからです。西野氏は、このように貴重な標本類が廃棄されていくことに心を痛め、学術標本としての生命が絶たれたものであったとしても、歴史的、美術的、財産の価値を観るべきであると、様々な活動をされていて、その一つに「アート&サイエンス」というコンセプトの下で進められてきた一連の活動があります。
私が撮影をすることになったそもそもの事の起こりも、西野氏とグラフィックデザイナーの原研哉氏が、このコンセプトの下、デザインの雑誌で対談する連載があり、そこで原氏から撮影を依頼されたことに始まります。最初に見たのはプロペラやスクリューやギヤーなどの模型類でした。当初、東京大学総合博物館の小石川分館の窓から入ってくる自然光に、白い背景を配しシンプルに撮っていました。それが、3度目の撮影で円筒形のガラス製のケースに入った種子類の標本を撮ることになり、それまでの人工物とは違う、自然科学の標本に対し、私は特別な興味を持ちました。そして、色々と私なり悩んだあげく黒い空間に人工的にライティングをして撮ることに決めました。この黒の空間表現は、以前から非常に大事にしていたもので、久々にその手法を使うことにしたのです。それ程この撮影は私にとって大事なものになる予感がしていたのだと思います。雑誌の都合でその回を持って連載は終わったのですが、しばらくして私が是非、と西野氏に撮影を申し込み、改めて自分の写真作品として撮影を継続することになりました。そのために、かなり大げさな撮影機材を小石川分館に持ち込むのが、氏は思いもよらないことでかなり驚かれ、多少、気分を害された様でした。しかし、私が撮影した最初のポラロイドを見たとたん「これは素晴らしい、この写真はこれまでの博物の写真になかった、それら博物標本に対しての新しい価値を見つけることの出来る写真だ」と興奮気味に私に話されたのを、昨日のようにおぼえています。そして、この作業をお互いに続けていくことになったのです。そしてこれを写真集にするならばデザインや装丁は、やはり当然、この事のきっかけを作った原氏でなければと西野氏と共に改めてお願いしました。そしてそれは「上田義彦のマニエリスム博物誌」・『CHAMBER of CURIOSITIES』というタイトルで、出版を赤々舎の姫野希美さんが快く引き受けて下さり、写真集として次の年に出版されることになりました。その後これらのシリーズは東京大学出版会に引き継がれ『ONE HUNDRED STONEWEARS』、『BIOSOPHIA of BIRDS』として2冊の写真集が続けて出版されたのです。これらのシリーズは東大の西野氏、デザイナーの原氏、そして私の三者のいずれの力が欠けても成立することはなかったでしょう。さらに、このシリーズに協力をして頂いた東京大学の教授の皆さま、そして最後になりましたが、『BIOSOPHIA of BIRDS』では秋篠宮殿下のお力添えをいただき、そして山階鳥類研究所の所員の皆さまのご協力無しには出来得なかったものです。東京大学での写真撮影はその後一段落しましたが、私自身はこの撮影(博物)に終わりはないと考えており、私が興味を抱くものが見つかれば、世界中どこへ出かけて行ってでも、撮影を続けていこうと考えております。
1980年代初頭の日本は、すぐれたデザイナーたちが大活躍し、モードの世界と写真表現の間でさまざまな実りが生まれた時代だった。上田はファッションの分野でプロとして最初のスタートを切る。そして多くの仕事に打ち込むなか、自身の表現を模索していった。
1981年 マリークレール「特集 山本耀司」より
自分らしい写真とは?
写真家として独立して間もなく、1981年、私の最初の仕事、当時、最先端のファッション雑誌「流行通信」の編集者から依頼を受け、ポートレートのページを撮影することになりました。私が24歳の頃です。そこから始まり、ファッション写真の撮影を多くするようになったのです。その頃「マリ・クレール」の日本版が創刊され、私が東京コレクションのファッションショーを撮ることになりました。ですが、私はこういう撮影をするのは初めてで、ショーの行われる場所に行って愕然としました。いわゆるファッションショーの写真を撮る場所というのは予め決められているのです。モデルが歩く通路の両サイド、よくストロボが光っているのをテレビなどで見たことがあると思いますが、その通常予め決められている撮影位置に、私はどうにも納得出来ませんでした。どういう写真になってしまうのかはっきりと想像できたからです。その時私の頭の中には、普段とくに興味も持たずに見ていたファッション雑誌の、お決まりの様なショーの写真(モデルを下から見上げ、バーンとストロボが当たった写真)が浮かんでいました。これはたまらんとその場をたち、うろうろと良い場所はないかと探していると、どうにか立ち見席の中で良い場所を見つけることが出来ました。それ以降私は何回かのショーをこのやり方で撮影し、撮影が全て終わってから編集部に写真を持って行くと、編集者が私に強く言いました。「これは、全く、ファッションショーの写真とは言えない、服がちゃんと見えていないじゃないの、こんな写真は使い物にならない」と語気を強めちょっとした騒ぎになったのです。そこに編集長が現れ、顔を二人の間にヌーッと出し、ライトビューワーの上に並べられていた写真をしばらくじっと見ていました。そして編集長は突然「これは面白いじゃないか。ページ取りはどうなっているんだ?」と編集者に尋ね、話が急転直下私にとって良い方向に進み始めて、あれよあれよという間に、かなりのページ数の特集になったのです。私は事の成り行きを多少の驚きと共に眺めていたのですが、話はさらに進み、すぐ次号に予定されていた「山本耀司と川久保玲の世界」という特集で山本耀司氏のポートレートとそのファッション写真を撮る仕事を誘われました。川久保玲さんの方は写真家の操上和美氏で、こちらは誰も名前も知らない新人写真家。この事は今考えても当時の編集長による驚くべき無謀な大抜擢だったと思います。若い私にとっては、とてもとても嬉しかったのを、昨日のことの様に鮮明に覚えています。当時の私はファッションのことはほとんど知らず、撮影しながら次第に面白くなって興味も持ったのですが、ファッション写真というものが、私が撮りたかった写真なのかと、真剣に考えはじめると、次第に疑問がどんどん大きく私を覆い始めました。
「写真家・上田義彦」の存在感を強く印象づけたのは、上田が表現の核心の一つを、ポートレートに定め始めた頃だった。ポスターや雑誌媒体で世に問われた、著名人の肖像写真が放つもの。その力の大きさの背景には何があるのだろうか?
1990年 写真集「YOSHIHIKO UEDA 1987-1989」Art Random 87 より
1990年 写真集「YOSHIHIKO UEDA 1987-1989」Art Random 87 より
1990年 写真集「YOSHIHIKO UEDA 1987-1989」Art Random 87 より
上田が撮ったマイルス・デイビスとロバート・メイプルソープの写真は、後に彼らの自伝を出版するにあたり、その表紙として選ばれる事となった。
ニューヨークでアーティストたちを撮る
そんな風に撮影を続けていくうちに、ファッション写真は自分には合わない、もう辞めようとある日思ったのです。自分自身の写真を撮っている気がしなくなったのです。自分が写真に期待しているものが、ファッション写真に写るとは思えなくて。そんな頃に、JUNのブランドの広告で、ニューヨークのアーティストや作家のポートレートを撮るシリーズがスタートしました。私にとっては、胸躍る日々の始まりとなりました。その頃私は比較的大型のカメラを使っていましたが、ポートレートを撮る時は6×7のカメラを自然に選ぶことが多かった。当時「空気感」という何だか人を煙に巻く様な、よく分からない感覚だけの言葉をしばしば使っていました。背景に対してもその様に「空気感」を求めるところがあったと思います。人物と背景の関係というのも、人物とそれを取り巻く空気としてどう写るのか、それでどういう背景を置くことで、それを描きやすくするのか考えていました。ニューヨークで撮影した「EX JUN」のシリーズでは、助手と2人で朝方のセントラルパークへ土を採りに行き、それをロフトの屋上で布バックに塗り込み、どうなるか分からぬままドロドロになりながら「土染め」の背景をつくりました。とてもとても懐かしい。
私が撮った人々の中でよく思い出すのは(当然その時撮った全ての人のカメラの前でのいちいちは、鮮明に覚えていますが)アフリカの皮の椅子の上に超然と座る美しいマイルス・デイヴィスの姿です。その真っ直ぐカメラを見つめる目の透明感は、今も忘れることは出来ません。またもう一人私にとってとても大事な人、ロバート・メイプルソープを撮った時は、私は朝からそわそわして落ち着きがなかった。長い時間が経ち、待ち疲れ、ロフトのスタジオに置いてあった長椅子に横になり、目を閉じウトウトしていると、彼が階段を登って来る音が聞こえました、その靴音を聞いただけで、もう心臓がドクドクと高鳴りました。メイプルソープが私のカメラの前に足を組んで座った姿は、細身の体にグレーのジャケット、細いジーンズに黒いブーツといったとてもシンプルな姿だった。カメラに真っ直ぐ向かう視線は、何か「丸ごと撮っていいよ」と言っている様に私には思えました。そしてカメラを少し近づけて、彼の顔を撮り始めた。レンズを通して長く見つめ合った。メイプルソープが私に何かを許した。そういう優しい眼差しを感じた瞬間シャッターを押した、忘れられない大事な瞬間でした。すがすがしく、ほんの少し、誰にも分からない様に微笑みをたたえた彼の眼差し。そんな、私にとって、とても大事な、ロバート・メイプルソープのポートレートが撮れた。撮影が終わり、彼としばらくの間写真の話をした。ポートレートの話。最後に彼が言った、「あなたが撮っている多くの人を私も撮っている。ほとんどの写真は私の方が良いと思うが(笑)、一人だけ負けたと感じる写真がある。それはディヴィッド・サーレだ」それは画家のディヴィッド・サーレが葉巻を手に持った横顔のアップの写真のことだった。私は嬉しかった。何かとっても素直なやさしい愛情の様なものを彼の言葉の中に感じたのだと思う。私は彼に今日のお礼を言って強く握手をした。そして階段を下ってゆく偉大な写真家の後ろ姿を見送った。その後ろ姿は私の網膜に今も鮮明に焼き付いている。それが私の、ロバート・メイプルソープとの初めての出会いの日であり、最後の別れの日でもあった。私が本当にロバート・メイプルソープの写真を理解し、好きになったのはこの時だった。この時彼は既にエイズを発症していた。1986年の冬の寒い日だった。
1980年代に写真表現に真摯に関わったものにとって、ロバート・メイプルソープを避けて通れた者はいないのではないか。それほどメイプルソープの写真は意義深いものだった。上田はその表現の芯を見据え、自分の表現との格闘を模索した一時期を持った。
1989年 Tryptich 1
1990年 Arc
1990年 Tulip
1989年 Une Phalaenopsic et Un Vase Noir No.1
決別の前に
メイプルソープは私に、とても大きな影響を与えた写真家の一人でした。彼の死は私にとって大きなショックでした。その死から1年過ぎた頃、私が彼のポートレートを撮ってから2、3年後の頃だったと思います。あの様な素晴らしい力を持った写真が、その死で途絶えてしまうことに深い悲しみと疑問を覚え始めたのです。そして遂には、愚かにも彼の写真を受け継ぐことが出来るのは自分じゃないかと思ってしまったのです。若くて熱かった、私が20代の最後の頃だったと思います。彼の写真を受け継ぐ意識を持って写真を撮るべきじゃないかと考えてしまったのです。それは程なく間違いだと判ったのですが、かなり真剣にそう思い込んでいた時期が1年程あったと思います。オマージュと言えばそうですが、私がそこに踏み込むべきではなかった。そこはやはりメイプルソープだけの世界なのだから。私は間違いであることにはっきりと気づきました。そして、そこから決別しようとしたのが、その後発表することになる『3WOMEN』、そして『QUINAULT』でした。特にこの『QUINAULT』という森のシリーズを撮ったことによって私はメイプルソープの写真から完全に決別することが出来たのだと思っています。
(C)上田 義彦
取材・構成/池谷修一



















