


1990年 写真集「LOVE CALL」より

2003年 写真集「LOVE CALL」より
2008年5月、坂田は、20年に渡り取り組み続けてきた肖像写真のシリーズをまとめあげた。時代と人、そして写真との交わりが900点を超える規模で展開。写真集と展覧会は大きな注目をもって迎えられた。
肖像群からたちのぼる「時代」
人生にはやはり、運命的な出会いが決定的な転機をもたらすものですね。「AERA」初代編集長だった富岡隆夫さんに、「とりあえず、1年だけでもやってもらえないか」と言われてはじめたんです。僕は元来が飽きっぽい性格なので、長くやれるかどうかは、あまり考えていなかったのです。それが1年経ち、3年経ち、5年経つうちに、みんなに、少なくとも20年位はやらなきゃ駄目だよ、と背中を押され、励まされて、遂に20年やり続けることが出来ました。今もそうですが、特に最初の2〜3年は苦労しましたよ。というのは、絶えず変容する社会と変遷する時代との接点を絞り込んでいく大変さや、また“顔”という極めて外向的な造形の中に、その人の核心に触れられそうな内面を発見することへの焦りもありましたね。試行錯誤では到底乗り切れない、困難にぶちあたることの連続でしたね。週刊誌は一週間で捨てられてしまう悲しい運命にあるのだけれど、今回こうして、一冊の写真集としてまとまった『LOVE CALL - 時代の肖像』が出版されて、感無量です。ページを捲っていくと、人物が時代とどう関わってきたか、そしてその人物を通して時代そのものも分かるというわけです。大袈裟かもしれないけれど、こういうものを残していくことが文化に繋がっていくんですよ。長くやっているといろいろなものが見えてくるものです。持続は力なりと言われますが、まさにその通りですね。
写真に目覚めたのは意外に遅かった。興味が向くままに進学した大学で、やがてドキュメンタリー写真へと興味をつのらせていった。
報道志望だった学生時代
高校ぐらいまでは、実は写真にまったく興味がなかったんです。父のようなサラリーマンにはなりたくないという漠然とした考えがあっただけでしたね。親族では、唯一、芸大を出て、結婚するまでは油絵を描いていた叔母がいましたけれど、芸術系の血筋ではないですね。祖父に坂田警軒という有名な漢学者がいますけれどね。写真に興味を持つようになっていったのは近所のDPE屋さんに出入りしていたのがきっかけでした。そこのお兄さんがたまたま友達で、お店でよく写真を見せてもらっていたんです。それで、だんだんと興味がわいてきました。そこで父親に写真の学校へ進学したいと話したら、写真なんて道楽だよと一喝されましてね。ただ母親は理解してくれて、人生は一回きりなんだから好きなことをやればいいと父を説得してくれたんです。そうして日大芸術学部の写真学科に入ることになった。それがたまたま写真だったというだけで、デザインだとか映画に目が向いていたら、そっちへ行ったのかもしれません。だって最初はカメラすらも持ってないんですから(笑)。写真学科では報道部に入りました。ユージン・スミスなんかの写真は好きで、報道写真志向は強かったですね。一年上の先輩に須長孝榮さんという方がいて、彼についてまわって、山谷だとかよく通い、35ミリで撮っていましたね。
坂田のその後の写真家人生に大きな指針を与えたのが、リチャード・アヴェドンとの出会いだ。持ち前のバイタリティで大きな好機をつかみ、やがてニューヨークへと旅立つことになる。
出会いをあたため、チャンスを活かす
要領はいいほうだから、大学の単位は3年でほとんど取っちゃったので、いろいろなアルバイトをしていました。小遣いは全部自分で作っていましたね。あるディスプレイ会社でアルバイトをしていて、その社長さんにとてもかわいがってもらいました。その後、ライトパブリシティに入るきっかけを作ってくれたのも、その社長さんだったんです。「君は外国へ行った方がいい。その方が伸びる。そのためにはとにかく日本で技術を学んでいけ。技術を身につければ、必ず役に立つから」とアドバイスをくれたんです。
ライトパブリシティには、約1年在籍しました。まさに黄金時代で、和田誠さん、細谷巖さん、篠山紀信さんもいて、すごい人たちが活躍されていました。そして、入ってから何ヶ月もしないうちに、リチャード・アヴェドンがヴォーグ誌の撮影で来日することになったんです。ちょうど、彼が写真集『Nothing Personal』を出版したころでした。篠山さんは、ニューヨークに行くのならアヴェドンにつくしかない。だから絶対にコネをつけなきゃ駄目だって(笑)。とにかく、篠山さんはものすごく勉強家で、外国から入ってくるありとあらゆる写真集を取り寄せて見てましたからね。アヴェドンは日本でのセカンド・アシスタントを募集しているということで、代理人の面接があったんです。そこで、5分くらい一気に話してやろうと思い、英語を丸暗記しましてね(笑)。向こうの人は驚いて、感心して聞いているわけです。それで採用されたんです。英語をどうやって勉強するか、考えましたね。習うようなお金はないですからね。当時、ライトパブリシティは帝国ホテルの側にあったんですよ。そこで、昼休みや仕事が終わった後、ホテルに出かけて行き、ロビーにいる暇そうな老人を見つけて「僕はこれからニューヨークに行くので、英語の勉強をしています。時間があったら私と数分でもいいので話をして下さい」と書いた小さな紙を持って、いろんな人に次々と声をかけたわけです。そうやって勉強したんですよ。

1967年

1967年
アヴェドンのもとには、いわば当時の写真の最前線がひしめいていた。ダイアン・アーバスとの忘れがたい出会いもそのひとつである。坂田はその空気をつぶさに身に受け、写真への確信をひたすら掘り下げていた。
アヴェドンスタジオでの日々
アヴェドンがヴォーグの撮影を終えて、離日するとき「あなたの作品は私の心の琴線に触れました。あなたのもとで是非働かせてほしい。全身全霊を捧げます」と伝えたところ、半年くらい経って「すぐ来るように」というアヴェドンからの手紙を受け取ったんです。そうして、ディスプレイ会社の社長さんが片道切符を買って下さり、200ドルを貸してくれました。ニューヨークに渡ったのは1966年、26歳の時でした。マンハッタンの110イースト・58ストリートにアヴェドンのスタジオがありました。そこで第一歩を踏み出したわけです。まず、アヴェドンのスタジオではじめた仕事は、彼が写真をはじめたころからそれまで撮ってきたすべてのコンタクトプリントを作る作業でした。アヴェドンはディアドルフを使って、一度に100枚から150枚撮っていたようです。また、ローライフレックスで撮った膨大なネガがありました。ネガを保管している専用のスペースがあって、そこにネガを無造作に入れた箱がずらりと置かれていました。当時、彼は46歳くらいだったので、約25年分くらいのネガがすべてそこにあったわけです。おそらく何十万枚もあったんではないでしょうかね。
コンタクトプリントは手作業ではなく、機械を使ってやっていました。露光をかけた印画紙を入れると、現像されたプリントが出てくる仕組みになっているんです。そしてあとは湿っているそのプリントを並べて乾かしておけばいいんです。そこはそのために作られた簡易暗室で頭が天井に付きそうなくらい狭い場所でした。そこで朝の9時から夜の6時まで丸1年没頭して作業していました。それから2年目で、カラー現像を任されました。アヴェドンのスタジオには8×10と6×6の現像が出来るマシンがあったのです。その仕事と同時に、撮影助手としてスタジオにも入ることが出来ました。撮影が手伝えることになって、ものすごく嬉しかったですよ。
ダイアン・アーバスとの思い出
アヴェドンのところにいて、いちばん勉強になったのは人との出会いですね。スタジオには、ありとあらゆる有名人が出入りしていました。トルーマン・カポーティ、ウィリアム・デ・クーニング、アンディ・ウォーホル等。そこで僕は言葉が分からないなりに、アヴェドンが如何に人と対峙するかを知り、その雰囲気の中にとけ込んでいました。ですから、僕は若い時から大人の世界の空気を感じ取っていたのです。毎日本当に楽しかったなあ、いろんな人に会えて。そして、3年も過ぎたころ、ビア・フェルターというハーパース・バザー誌の有名なアートディレクターとアヴェドンとが、ジャック・アンリ=ラルティーグの写真集の編集をはじめました。僕はその仕事を1年間手伝いました。すごくデザインの勉強になりました。それと、僕はダイアン・アーバスにもとても影響を受けました。ダイアンはローライフレックスを首に掛け、時々アヴェドンに会いに来ていました。ダイアンはとても物静かでどこか寂しげな人でした。ある時、彼女は自分の濡れたプリントを抱えてやってきました。彼女はプリントを乾かすドライヤーを持っていなくて、アヴェドンスタジオの大きな乾燥機を使わせてもらってたんです。彼女がやってくるのはスタジオが終わるころで、他のアシスタントは帰り支度をしているころでした。僕は彼女のプリントをもう一度水洗いし直し、ドライヤーを使って乾かしてあげたんです。帰り際に彼女は、「手伝ってくれてありがとう」といって、数ドルを僕のポケットにねじ込んできた。僕はそれを拒否し続けた。僕はあなたの写真が好きだから手伝っているので、心配しないでほしい。そういうと彼女は驚いたそぶりで「本当に私のプリントが好きなの?」と聞き返し、「私のプリントを今度プレゼントするわ」と付け加えた。そして、ダイアンから手紙が届いたんですよ。
「親愛なる坂田、なんて素敵なの! 私の写真を好きなんて、とても嬉しいわ。すぐにプリントするわね。あなたはいつも進んで本当によくやってくれて、あなたからもらう手紙は本当に嬉しいわ。ありがとう。ダイアン」
しばらくして、彼女は16×20のアグファペーパーで焼いた"Identical Twins"の写真を持ってアヴェドンスタジオにやって来ました。その写真の下にはダイアンの小さなサインがありました。本当に感激しましたよ。今、その写真はいつも私の側にあって、写真を見るたびにそのころのことが懐かしく思い出されるんですよ。
1967年 写真集「JUST WAIT」より
1969年 写真集「JUST WAIT」より
初個展はタイムズスクエアに集う多種多様な人々をとらえた「Just Wait」。当時大きな評判を呼んだこの展覧会をきっかけに、その後、広告の分野で大きく飛躍することになる坂田のキャリアが動き出していった。
デビューでつかんだその後の道
「Just Wait」は66年の後半から4年ぐらいの間に撮ったものです。そのうちの30点ほどをニコンサロンの展覧会に出しました。篠山紀信さんがニューヨークにこられたときに僕の写真を見て、すごく感動してくれて「日本で発表したらどうか。ニコンの審査に掛けてあげるから」と言ってくれたんですね。篠山さんのおかげで審査に通って、いい時期の9月からやらせてもらえました。この展覧会はものすごく話題になりましてね。そこに石岡瑛子さんも見に来てくれていたんです。そして「もし東京に帰ってくることがあったら、私に電話をくれる?」と言ってくれました。それからニューヨークに戻ったんですが、1年ぐらいして帰国することになったわけです。帰国後、言葉通りに石岡さんに連絡したら、とても大きな仕事を頼んでくれました。黒人の可愛い少年が靴を持っているドキュメンタリーみたいな写真です。彼女と2人でニューヨークに出かけて、黒人の少年をオーディションして、35ミリであの1枚を撮ったわけです。これは後で聞いた話ですが、クライアント側には「坂田はドキュメンタリー的な写真をやっているから、彼に頼むのはリスクが大きい」という声があったそうです。だけど石岡さんは「私がディレクションをするんだから口を出さないで」と言ったそうなんです。すごい人だなあと思いましたね。この写真がまた話題になりました。これを機会にパルコや角川文庫などの広告の仕事を石岡さんとやるようになりました。そのころは日本も急成長を遂げているころでしょう。すごい時代だったし、とにかく仕事が面白くてしかたがなかったですよね。
(C)坂田 栄一郎
取材・構成/池谷修一




















